特攻の街・知覧
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<特攻の街・知覧
富屋食堂(映画「ホタル」の舞台) 外観は当時のままだそうです。
特攻出撃に向かう先輩方です。なんと若いのでしょう・・・・。
特攻平和会館(鹿児島県知覧町)
母の像
特攻平和観音堂・特攻銅像・母の像・特攻平和会館の由来
この地は、昭和14年ごろから陸軍飛行場としての調査がはじめられ、ついで昭和15年建設に着手。大東亜戦争が勃発した直後、すなわち昭和16年12月24日に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校された。
翌昭和17年1月30日、第10期陸軍少年飛行兵78名の紅顔の若鷲たちが操縦教育を受けるため、完全武装の姿で知覧駅に到着。駅頭を埋めた町民たちの熱狂的な大歓迎を浴び、飛行場まで歩武堂々の隊列行進をした。95式練習機(赤トンボ)による初飛行は2月4日に行われた。
南国とはいえ寒風肌を刺す厳冬のなかで、一撃必殺の闘魂に燃えた若鷲たちの必死の訓練は猛烈を極めた。従って、この日を境にそれまで静かなたたずまいの城下町であった知覧町は一転して爆音に明け暮れた。だが、当時この飛行場が3年後に至り、痛恨無比の特攻肉弾の基地になろうとは町民のだれもが夢想だにしなかったことであろう。
昭和20年連合軍による飛石進攻作戦はすさまじく、戦局は急速に衰退の一途をたどりつつあった。同年3月25日、敵は遂に沖縄防衛戦の一角、慶良間列島に上陸を開始するにおよび戦局は最悪の事態を迎えた。そこで、これまでの敗勢を一挙に挽回する手段として、世界戦史にその類例をみない一機よく巨艦を屠る、必死必中の体当たり攻撃が敢行された。沖縄特攻で散華された1,036柱の隊員は、知覧基地を主軸に万世、都城基地や第8飛行師団は台湾各基地から義烈空挺隊は健軍基地(熊本)から出撃した。
知覧町では、これら特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰、ご英霊をお慰め申し上げ世界の恒久平和を祈念するため、関係将士ならびに念願を同じくする有志一同の浄財をもって、知覧町旧飛行場後に“特攻平和観音堂”を昭和30年9月28日に建立し観音像を安置している。
この観音象は陸海軍特別攻撃隊烈士の不滅の英霊を平和観音堂に顕現して、その忠烈な偉業を顕彰し、永遠のご冥福をお祈りするため、元海軍大将及川古志郎、同高橋三吉、元陸軍大将河辺正三、元陸軍中将京菅原道大、元海軍中将寺岡謹平等の諸氏が発起人となり有志の方々に喜捨を仰ぎ昭和27年春特攻平和観音としてつくられたもので、この観音像は大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて謹鋳した。54センチの金銅像で現在一体は東京都世田谷の世田谷山観音寺の特攻平和観音堂に安置されて毎年秋分の日に法要が行われており、同じ一体を当時の航空総軍司令官河辺正三大将、第六航空軍司令官菅原道大中将のお二人が、知覧に是非お祀りしたいと持参されたのが知覧特攻平和観音である。この観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した巻物が奉蔵されており毎年5月3日(平和憲法記念日)には知覧特攻基地戦没者慰霊祭が盛大に挙行される。
なお、浄財は、昭和49年、平和の守護神として大空にそびえたつ特攻銅像「とこしえに」となり、昭和50年、崇高なご遺徳をしのび恒久の平和を願う特攻遺品館(昭和57年改装)や、昭和57年、特攻隊員が出撃前夜、今生最後の夢を結んだ三角兵舎の復元(特攻平和会館東隣)となった。
又、昭和61年には、「とこしえに母と共にやすらかに」の願いをこめて、母の像を前田将氏(熊本県)が建立された。以来、年毎にふえる観覧者や遺品類に特攻遺品館が手狭になり、知覧町が、まちづくり特別対策事業により昭和60年度から2ケ年継続で知覧特攻遺品館を知覧特攻平和会館と改称して新築した。
これらの施設は、特攻勇士が安らかに眠られる特攻平和観音堂とともに、日本民族の平和への象徴として知覧木佐貫原原頭(旧陸軍特攻基地跡)に永遠に光り輝くことでありましょう。(知覧市HPより)
資料提供 teruteruさま
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